はつこい



 彼はわだつみのような人だった。
 常に物静かで多くを語ろうとしない。評判が悪いわけではないのだが、さりとてその逆でもなく、いまいちぱっとしない。とにかく地味で存在感が薄いのだ。女子高のような場所ではなおさらだった。自分がちやほやされるのは当然と信じ込んでいる少女たちで溢れかえっているここにおいて、彼のように愛想のない教師は見向きもされない。数少ない竜人では容姿の美醜が分かろうはずもない。つまるところ、人気がない。
 そんな彼に私は思慕のようなものを抱いていた。
 閉鎖された女子高という環境の中、無邪気で無自覚な高慢を肥え太らせていく女生徒達。それを正すこともなく、それどころか利用している節すらある教師たち。そんな周囲にうんざりしていた私にとって、彼の無頓着さは心地よいものですらあった。それが無思慮からではなく、彼の生き方から来るものだったから。汚い意図が見え隠れするようなものではなかったから。こっそり遠目から見る彼の背中はどっしりとして、立派な大人、汚くない大人、という感じがした。
 学年が上がり彼が担任になると決まったとき、心の中でひそかにガッツポーズを取ったのは私だけに違いない。クラスメイトたちは皆一様に不満たらたらだった。隣のクラスが人気の高い獅子人教師だったから、というのもあるだろう。確かに若くて気も利く彼は親しみやすいが、それだけだ。しょせん相手は女子高生だと高をくくっているのが態度の裏に透けている。それに気づこうともしない友人たちの無知には虫唾が走る。
 醜いものは嫌いだ。海に流してしまいたい。


 クラス替えも済んだ朝、教室には既にはっきりとしたグループが形成されていた。私の周りにも前のクラスで一緒だった何人か、それとちょっとした知り合い程度の連中が集まってきてグループができている。寄らないでと言いたかったが、そうする方が面倒だったからやめた。こんなときは一人でいられる人が本当に羨ましい。自由に、孤独に、誇り高く。下らないお喋りをふっかけられることもない。
「ねー、白ちゃんどうすんのー? アイツ担任とかほんとどうしようもないんですけど」
 歯を剥きだして犬人の友人は笑った。醜い。横面をひっぱたいてやりたくなるのを抑え、私はいつも通りの笑顔を作る。
「どうって……別にいいじゃない。変な人じゃないし、英語担当だから試験の情報が入りやすくなるし。あなた英語苦手でしょ?」
「さすがね白ちゃん。可愛い顔してえげつなーい」
 そう言って笑うのは蛇人の女子。あなたの顔の方がえげつないわ、と言いかけた。
「でもさー、白ちゃんこの流れだと委員長になるでしょ? そうなったらアイツに毎日日誌届けなくちゃいけないんだよ。ヤじゃない?」
「どうして?」
「だってさー、あの顔じゃ何考えてるかわかんないし」
 誰かが言ったさりげないその一言に蛇人の彼女がキュッと目を細めた。表情を作りにくい爬虫類なのを気にしていることぐらい知っているだろうに、これだ。なのに自分たちは親友だと言いあうのだから分からない。
「でもさー、そうなったらほんとあぶないよね。アイツいつもダンマリだから、ムッツリだったりして……白ちゃん可愛いんだから襲われるかもね?」
 犬人の彼女の微笑みはいつにも増して醜い。瞳の裏に汚されてしまえ、自分より醜くなれ、という炎がくすぶっている。うわべはうっとうしいほど纏わりついてくるくせに、私への陰口が一等激しいのは彼女だ。私の容姿を妬むのならもっと努力すればいいものを。そのノミがたかっていそうな毛皮も、垢で汚れた耳も、ボサボサの尻尾も、一度念入りに手入れしてみればいい。自分がどれだけ自分に手を抜いているか思い知ればいい。
「大丈夫だってば。テレビの見すぎよ」
 私がきっぱりと言うと何がおかしいのかキンキンとした笑いが起こる。錆びた金属が擦りあわされたようなそれに合わせて声をあげつつも、目は時計を追わずにはいられない。先生早く来て。私をここから解放して。

 その思いが通じたのか、教室のドアが開いて鉄紺色の鱗が現れた。窮屈そうに身を屈めて入ってくる彼に、ぐずぐずと固まっていたグループもそれぞれの席に座った。教壇に立った先生は教室内を睥睨する。そんなつもりがあるのかないのかは分からないが、十分に威圧的だった。
 水を打ったように教室は静まり返る。意に介した風もなく、先生は簡単な自己紹介を始めた。
「私は帝。英語を担当している。今年一年君たちの担任となった。よろしく頼む」
 先生はそう言うと黒板に向き直り、たどたどしい字で大きく「帝」と書いた。それを見た生徒たちからはクスクスと失笑が漏れる。字の危うさもさることながら、その背中に金木犀の花が散っていたのだ。先生は気づいていないのか怪訝な顔をして振り返るが、誰も教えようとはしない。他人が気づけないことを教えようともせずに嘲笑う。なんて醜い人間たちだと思うと胸がむかむかする。私が思い切って手を上げようとした頃には、先生はもう次の話題に移ってしまっていた。
「これからクラスの委員を決めようと思う。半年間の間行わなければいけない仕事だから、しっかり考えて選ぶように。まずは委員長を決める。自薦、他薦問わないが、誰かいるか?」
 すぐに友人たちが手を挙げて私を推薦する。それを見て他のグループのリーダー的存在が立ち上がりかけたが、すぐ椅子に座りなおした。小狡い分、負ける戦いはしない主義のようだ。
 水面下の勢力争いは一瞬で決着がついた。私は先生に言われた通り席を立ち、教壇に歩み寄る。先生は私に道を譲り、ちょうどすれ違う格好になった。

 魔が差したのだと思う。普段の私なら絶対にあんなことはしないはずだ。あんな、はしたない真似。

 私は尻尾でひょいと先生の背中の金木犀を払った。床にぽろぽろと花弁が飛び散り芳しい匂いを放つ。先生は当然驚いて振り向くが、私はそ知らぬ顔でチョークを手に取ってみせる。まだ怪訝そうな顔をしている先生がおかしくて、私は小さく笑ってしまった。
「先生、役職リストいただけますか?」
「あ、ああ……」
 ぎこちなく一枚の紙を差し出してくる手はごつごつとした鱗に覆われている。紙を受け取るついでに触れた硬質な冷たさが指先に心地よい。何も気にしていないふりを装って私は黒板にチョークを滑らせた。
「副委員長、二名。清掃委員――」


 放課後の校舎は人が少ないから居心地がいい。しつこい友人たちを委員長の仕事は忙しいからと追い払えたから、特に。
 彼女たちは最後の最後まで先生に気をつけろ、背中を見せるなとうるさかった。そういうことを考えてしまう場合も時にはあるだろう。冗談とはいえ、それを口に出せるから下種なのだ。
 先生の部屋は学校の寂れた一角、資料室だと聞かされていた。予想通りとはいえ、先生と二人っきりになってしまう。軽い深呼吸を何度か重ね、私は先生の部屋のドアを叩いた。
「どうぞ」
 落ちついた声が許可をくれる。鼻に届くのは埃っぽい匂い、それに混じって淡い金木犀の匂い。私はドアを後ろ手に閉めてその匂いを胸に吸い込んだ。綺麗な、いい匂い。
 先生は書きものの手を止めてわたしを見た。
「君か。日誌か?」
「はい。職員室で聞いたら先生がここに移動したって聞いてびっくりしました」
「ああ……私の体に合わせた机を発注したら職員室に入らなくてな。それで仕方なく、この資料室にしてもらった」
 先生の巨躯に合わせたという机も椅子も私が使うそれより何倍も大きかった。それなのに先生が使っていると小さくすら見える。あらためて先生の大きさを知ると共に、それが職員室に入らないと知ったときの先生を思い浮かべて私はついつい笑ってしまった。
「どうした?」
「いいえ、なんでもありません。はい、これ日誌です」
「ああ」
 先生は丁寧な手つきで小さな綴じ本を受け取るとじっくりと読んだ。当然私が書いたものだから恥ずかしくなってしまう。落ちつかなくなって部屋を見渡した私は壁に背広が掛かっているのを見つけた。黄色い花片で着飾っていたそれは丁寧に払われて綺麗になっている。私の視線に気がついた先生はのそりと顔を上げた。
「白君」
「はい」
「君は、字が綺麗だな」
「ありがとうございます」
 先生の尻尾が物言いたげに床を打つ。しばらく床板を痛めた後、先生は視線を背広に移した。
「……あれは、わざとか?」
「なんのことですか?」
 先生の答えが欲しくてはぐらかしてみる。先生はしばらく困っていたようだったが、つと私に視線を重ねた。
「金木犀は綺麗なものだ。ありがとう、白君」
「どういたしまして」
 その言葉が彼の答えだと信じる。私は精一杯の笑みを浮かべ、一礼をして資料室を後にした。


 その後のことはよく覚えていない。ふわふわと掴みどころのない、水の中を歩いているような感覚だった。親に何やら心配されていたような気もする。気がつけば入浴を終え、部屋のベッドにいた。
 実感はそこで湧いてきた。
「恥ずかしい……」
 異性の体にいきなり触れるなんて不作法にも程がある。それも、尻尾で。
 それなのに私はやってしまった。しかも彼はありがとうと言ってくれたのだ。
「うーうーうーうー……恥ずかしいよー」
 枕を抱えて唸っても、胸を押す恥ずかしさは消えるどころか膨れあがるばかりだ。身の内を駆け回る衝動を抑えきれず、だからといって何もできず。私は気を紛らわすために毛繕いを始めた。風呂上がりでまだ湿っている右腕の毛を丁寧に舐めて向きを整え、それが終わると今度は左腕。顔の毛はいつもしているように念入りに整える。しているが、鏡を見られない自信があった。手が震えてしょうがないのだ。
 部屋の棚に置いてある恋愛小説の一片が頭をよぎった。
『彼の眼差し。それを思いだすだけでアリシアの手は、体は、震えた。幼いころの思い出。それを塗り替えて余りあるほど彼の瞳は魅力的だった。そして彼女は知ったのだ。ああ、これが――』
 ――こい、なのだ。
 口にすると貧血を起こしたように眩暈がした。ああ、これが――恋。
 不意に嗚咽をこらえ切れなくなってベッドに突っ伏す。ちょうど鼻先にあった尻尾から金木犀が香った気がした。





アトガキ